宮城県仙台市の郊外、富沢から伸びる二車線道路が鈎取のイオンの横を過ぎ、丘陵の谷筋へ分け入っていくと、俄かに細い道のような空間が右手の向こう岸に現れる。それは木々の間で見えつ隠れつ、道路と並走するようにしてしばらく続いていき、終には舗装されたバスの専用道となって住宅街の奥にある営業所へと消えていく。

 

 ここには昔電車が走っていた――住宅街の入口にある小さなバス停で、私はそんな話を漏れ聞いたのだった。後ろに並んでいた老紳士がそばに立つ孫らしき子供に話すのによれば、仙台駅の方から目の前の専用道と重なるようにして、秋保まで線路が繋がっていたという。ちょうどこのバス停がある所にも駅があったのだと。

 

 まだ日の高い夏空の下、立ち込めるような熱気が息苦しさを誘う。中々やって来ないバスに辟易しながら、私はその話につい聞き耳を立てていた。仙台に住んでもう随分と経つが、こんな所に鉄道が通っていたなどという話は聞いたことが無い。しかしすぐそこで専用道の舗装が途切れた先にこんもりと草むした空き地が細長く続いている様子は、たしかにその上を電車が走って来そうな風に見えなくもなかった。

 

 結局この時はそれだけで終わってしまったのだが、それから後もあの線路跡のことが引っかかり、暇な時間を見つけてはそのたびに軽く資料を漁って調べた。どうやらその電車は「仙南交通秋保線(秋保電鉄)」と呼ばれていたらしい事が分かってくる。長町から秋保温泉までを結んでいたこと、もともとは石材を運ぶ馬車軌道だったこと、仙台市電に乗りいれて市内へと足を延ばしもしながら1970年代まで走っていたこと。老紳士が言っていたのは恐らくこの事だろう。話しかけてでも当時のことを聴いておけばよかったと今更のように後悔した。


 1914(大正3)年、秋保石材軌道という会社が長町より秋保温泉へと至る軌間762mmの小さな馬車軌道を開通させる。その社名が示す通り、建築材として広く使われた秋保石の輸送とともに、古くから名湯として名を馳せた秋保温泉への交通手段となることを目的としたものだった。

 

 開業に際して設けられた駅は長町、富沢(後の西多賀)、鈎取、太白山、茂庭、赤石(後の北赤石)、覗橋(後の秋保温泉)の7つ。うち覗橋駅は早くに湯本駅へと改称している。当時の時刻表では全線の所要時間を2時間20分としているが、馬車軌道であるが故に馬の調子に依存して前後したという。

 

 1922(大正11)年に秋保石材電気軌道へ、さらに1925(大正14)年には秋保電気軌道へと改称し、この年に762mmから1067mmへの改軌と電化を果たす。併せて電気機関車や電動客車が導入され、全線の所要時間を1時間程度にまで短縮した。

 

 

 

 翌年の1926(大正15)年には、鈎取 - 太白山間の沿線に旗立(はただて)遊園地を開業する。遊園地にはボートや遊覧船、スケート場に加え旅館まで設けられており、アクセス駅とするため隣接して同じころに旗立駅を開設している。 

 

 しかし不況の影響もあって、厳しい経営を余儀なくされていた旗立遊園地は6年後の1932(昭和7)年に閉鎖されてしまう。移転する形でより集客力の見込める秋保温泉に新たに開業したのがレジャー施設「温泉クラブ」(後に「あきう荘」)だった。こちらにはスケート場、旅館に加えて温泉プールが整備されており、途中陸軍の保養所に指定されるなどして昭和30年代まで存続していた。

 

 また1937(昭和12)年には秋保温泉近くの磊々峡(らいらいきょう)に遊歩道を設置するとともに、景勝地として一帯の観光地化を行っている。現在の観光地としての秋保温泉の基礎はこの時期に形作られたといっても良いだろう。昭和恐慌からの脱却も重なって、沿線の観光業とその輸送を一手に引き受ける秋保電軌は、ともに戦前におけるピークを迎えていた。

 

 

 

 戦時体制が色濃くなりつつあった1938(昭和13)年、国内各地における鉄道・バス会社の整理統合を推し進める目的で陸上交通事業調整法が施行される。これを背景として、宮城県でも県北部・県北東部・仙台市(当時)・県南部の4地域に分けて統合が行われることとなり、秋保電軌は県南部における存続会社としての指定を受けた。

 

 戦時下という時節柄で主要事業の一つであった観光業を縮小することを迫られる中、秋保電軌は1943(昭和18)年に県南部でバス事業を営んでいた仙南温泉自動車など5社を合併し、社名を仙南交通へと変更。バス路線の整理などを行って合理化を図り、燃料や物資の不足によって日に日に運輸状況が悪化していく中で戦時中を乗り切っていった。