終戦直後、仙南交通の前には鉄道の運行を立て直すにあたっての課題が山積していた。空襲の被害こそ比較的軽かったものの、戦時中を通して酷使してきた車両や施設が至る所で疲弊しきっていたのである。また沿線では戦後復興による人口増加や西多賀駅近くへの高等学校の移転を控えており、開業以来多くが旧式のまま放置されていた設備群をできるだけ早急に改善しなければならなかった。

 

 一方で燃料事情の好転とともにバス輸送の復興は早くから軌道に乗り始め、1950年代初めにはすでに戦前の水準をほぼ取り戻している。この当時、路線バスは秋保線と同じく長町にターミナルが置かれており、これを市内中心部へ直通させることが仙南交通にとっては長らくの目標であった。同時に仙台駅前より秋保温泉や川崎へと直行する路線を新たに開設することも考えられたが、市電と競合することもあって路線バスの市内中心部乗り入れは中々認められずにいた。このため既存の各バス路線に関してはその実現に向けて引き続き行政への働きかけを行うとともに、ひとまず秋保線への設備投資を実施して輸送力の強化および近代化に向けた改良を行う方針を打ち出している。

 

 

 

▲ 秋保線の沿線で運行されたバス路線(当時)

 

 こうして1950(昭和25)年、輸送力が小さい上に頻繁に脱線事故を起こしていた旧型車を置き換えるべく、全て二軸の単車であった従来車と比較すれば格段に大型となる13m級のボギー車・モハ20形が新造された(この時は設備上の制約から専ら長町 - 西多賀間の通勤通学輸送に充てられた)。その後も同形車の増備と並行して東京都交通局や箱根登山鉄道(小田原市内線)、果ては山梨県の山梨交通や香川県の琴平参宮電鉄から同サイズの中古車両がかき集められ、それまで秋保線の主役として使用されてきた単車群の多くは1950年代のうちに一線を退いている。

 

 また新車の導入と並行して1952(昭和27)年より、大部分の区間が電化以来の規格のままであった秋保線の軌道強化が開始される。カーブの緩和や建築限界の見直しといった一連の改良によって、1955(昭和30)年には13m級車両の全線での運行が可能になった。

 

 

 

 

 この頃にはちょうど高度経済成長期が前哨戦を迎え始めており、仙台市周辺においても徐々に郊外での住宅開発が始まっている。仙南交通でもその通勤客の需要を見込み、1958(昭和33)年に月ヶ丘駅、萩の台駅という2つの新駅を開設した。特に月ヶ丘駅には折り返し列車が多数設けられ、ささやかながら通勤路線としての運行形態の基礎を形作っている。

 

 既に本業となりつつあったバス事業に関して、先に述べた通り仙南交通は仙台市電との乗り継ぎ拠点である長町を起点として西の平や太子堂への路線バスを運行していたが、1955(昭和30)年には仙台市交通局の管内のみでの利用を不可とするクローズドドアシステムを採ることによって念願であった市内中心部までの一部路線の乗り入れに漕ぎ着けた。

 

 一方で1960年代に入ると秋保線の沿線でも本格的な開発が始まっていたが、こちらは秋保線を利用すると長町駅にて乗り換えを挟まなければならず、これが開発の進展に対する妨げとなることが懸念されていた。市電を利用する流動を確保したい市と中心部へ直通する交通手段を求める仙南交通との間で協議が重ねられた結果、両社局はかねてから構想があった市電と秋保線の直通運転を行うことを決定する。

 

 車両は双方のものを使用し、長町駅に設けられた連絡線を介しての乗り入れとされた。直通には2両編成を中心に充てる事とされたため、両社局において一部車両の連結運転対応・総括制御化が行われ、1965(昭和40)年の始めに完了した。

 

 同年中には営業列車の直通運転が開始され、各方面から市電長町線に乗り入れる既存の系統を延長した形で電車が走り始めている。当初こそ午前ラッシュ時のみとして開始された直通運転は時を置かずして拡大を見せ、2年後の1967(昭和42)年には終日にわたって市電への乗り入れを基本とした運行形態へ移行することとなった。

 

 

 

 

 

 

 利用客の好評を博した直通サービスだったが、そのピークはあまりに短かった。この時期すでに路線バスの市内乗り入れ制限は殆ど撤廃されており、開発の進んだ郊外から多くのバス路線が中心部へと向かうようにして設定されている。さらに深刻な道路渋滞の影響から定時性の確保が難しくなったこともあって、市電は道路交通の主役としての地位を徐々に失いつつあった。

 

 急速に進行していくモータリゼーションの中で、次第に市電は道路渋滞を引き起こす原因と見られるようになった。折しも国内の諸都市から路面電車が一つ、また一つと姿を消していた時期で、1973(昭和48)年には当時の市長より仙台市電を全線廃止とする方針が市議会にて表明される。

 

 当然問題となるのが直通運転を行う秋保線の処遇であった。秋保線の沿線ではいまだ宅地開発が盛んに行われており、仙南交通自身も1970(昭和45)年に自由ケ丘駅を開業させるなどして利用客の獲得に努めていたものの、その利便性は市電との直通によって支えられているといっても過言ではない状況だったのである。高規格化した上で将来的に建設予定の地下鉄と一体化させるという案も出されたが、莫大なコストが見込まれることから本格的に検討されることなく立ち消えとなり、結局は自社のバス路線へと転換する方向に落ち着いていった。

 

 仙台市電の全廃から3年が過ぎた1979(昭和54)年、秋保線はその後を追うようにして歴史の帳へと消えている。秋保石材軌道による開通から65年、市電との直通が開始されてからわずか14年だった。


 秋保線のことを初めて耳にして以来、私は久々にあのバス停に立っていた。30年も前に自由ヶ丘駅があった場所である。その存在を思い起こさせるものは、目の前の専用道を除いて悲しいほどに何も残っていない。

 

 バス停の椅子に腰かけ、秋保線があった頃の風景に思いを巡らせる。丘陵地を覆っていた森が切り開かれて住宅地となり、人々の新たな生活が根付き始めた当時、市内中心部まで乗り換え無しで行ける直通電車は便利で画期的なシステムとして受け入れられたことだろう。

 

 たった14年のうちにそれも姿を消し、線路敷は舗装されたバスの専用道へと生まれ変わって今に至る。かつての秋保線と並ぶように新たな道路も開通した。時代とともに目まぐるしく移り変わる風景を、あの老紳士はどのような思いで見ていただろうか。私も彼のように、今見ている風景のことを子や孫に懐かしく語る日が来るのだろうか。

 

 ふと、電車が入って来たかのような心もちがして我に返る。目の前で仙台駅前行きのバスがドアを開き、私を迎え入れていた。

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